古代日本の東北地方と大和朝廷!城柵の築造、蝦夷の征討、そして都城制の影響

古代日本の城柵と都城制は、その地域の支配と発展に不可欠でした。大和朝廷が国家の基盤を築く過程で、東北地方の城柵の築造と蝦夷の征討は重要な役割を果たしました。

大化三年から活動が記録され、都岐沙羅柵や秋田城など、多くの城柵が築かれました。坂上田村麻呂のリーダーシップの下、多くの勝利が得られ、胆沢から徳丹城までの築城が行われました。これらの城柵は、地域の開発と安定化に大いに貢献しました。

しかし、城柵と都城制の歴史はそれだけではありません。日本の都城制の発展は、飛鳥時代から始まり、長柄豊碕から藤原京、そして平城京と平安京へと続いていきました。

それぞれの都城は、その時代の日本の政治、社会、文化に重要な影響を与え、現代の日本の基盤を築きました。

本稿では、大和朝廷の東北地方における城柵築造と蝦夷の征討の歴史、坂上田村麻呂の活動、そして日本の都城制の発展について詳細に解説します。

お城博士
各時代の特定の都城とそれらの影響、さらには日本の羅城についても検討するぞ。
助手
日本の古代の城壁と都城制が、どのようにして国の発展と繁栄に寄与したのかを理解する手助けとなるでしょう。

大和朝廷と東北地方!城柵築造と蝦夷の征討の歴史

大和朝廷が律令国家としての体裁を整える過程で、西南の防衛と並んで、蝦夷の征討と東北地方の城柵の築造にも力を入れました。

本格的な活動は八世紀になってからでしたが、『日本書紀』によれば、大化三年(647年)にはすでに東北の渟足柵の築城が記録されており、大化改新直後からこの地域への注目が始まっていたことが確認できます。

巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵 国宝 平安時代・9世紀 現存最古写本 画像は現存第1紙(応神天皇紀)
巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵 国宝 平安時代・9世紀 現存最古写本 画像は現存第1紙(応神天皇紀)wiki

六国史に記された多くの城柵、例えば都岐沙羅柵、出羽柵、秋田城などは、蝦夷征討の軍事拠点として設立され、その後東北の開拓の中心地となりました。

この東北の城柵は、次第に北上し、神亀元年(724年)には多賀城が築かれ、太平洋側の拠点となり、日本海側では天平五年(733年)に築かれた秋田城が拠点となりました。

六国史とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの正史のことで、概ね編年体で記され、一部に紀伝体的要素が含まれます。

この史書編纂の国家事業は飛鳥時代から平安時代前期に行われました。日本書紀以前にも『天皇記』、『国記』などが編纂されましたが現存していません。

六国史の後にも国史編纂計画は存在しましたが完成には至りませんでした。明治維新後にも、六国史以降の史書編纂が計画されましたが実現せず、代わりに大日本史料が編纂されました。

坂上田村麻呂と東北地方の城柵!胆沢から徳丹城までの築城

大和朝廷の東北地方での取り組みの中で、坂上田村麻呂が重要な役割を果たしました。彼は797年に征夷大将軍に任命され、801年には4万の兵士を率いて陸奥に向かいました。

坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)
坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)

彼の軍隊は各地の蝦夷を攻撃し、その地盤である胆沢を成功裏に攻略しました。翌年、田村麻呂は再び軍を率いて出動し、胆沢城を建設しました。

その後も彼は、北方の志波城を築き、それが洪水の影響を受けたため、新しい徳丹城を建設しました。徳丹城の完成は813年で、多賀城からの移動と築城には約90年の時間がかかりました。

これについてさらに詳しく言うと、これらの城柵の規模は非常に大きいです。

たとえば、多賀城は東西で880メートル、南北で700メートルの大きさで、秋田城はさらに大きく、東西1150メートル、南北1100メートルの規模でした。

お城博士
東北地方では、「方八町」という特定の地域が存在し、そこにも城柵があった可能性が指摘されているぞ。
助手
また、秋田県の払田柵も、文献には記されていないものの、発掘調査の結果、東西1400メートル、南北740メートルの大きさであったことが判明しています。

日本の都城制の発展!長柄豊碕から藤原京へ

北魏洛陽や唐の長安などの都城制が日本にも影響を与えました。645年、孝徳天皇は飛鳥を離れ、難波の長柄豊碕に遷都し、ここで都城を建設しました。

これが日本の都城制の始まりとされています。

しかし、長柄豊碕京での都城制の詳細は、まだはっきりしていません。藤原京(現在の奈良県橿原市)での都城制がより有力であると考えられています。

672年の壬申の乱で勝利した天武天皇は新都の建設を始めましたが、天皇の死により計画は中断されました。その後、持統天皇が計画を再開し、694年に藤原京を完成させました。

藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る
藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵)。南側から見る

この都城は、大和三山に囲まれた約5キロメートル四方の地域に建設され、中央に大きな道路が南北に走っています。この道路の東西には、他の大きな道路が交差しており、碁盤のような形をしています。これを条坊制と呼んでいます。

天武天皇は、672年に壬申の乱で勝利し、翌年に即位しました。彼の治世は約14年間で、飛鳥浄御原宮を建設しました。

この時代は、持統天皇と一緒に天武・持統朝と呼ばれることがよくあります。この期間中、日本の統治機構、宗教、歴史、文化の基盤が形成されました。

文化的には、この時代は白鳳文化の時代とされています。

平城京とその影響とは?古代日本の都市計画と発展

平城京の時代、日本は急速な発展を遂げました。この都市は、710年に藤原京から遷都され、唐の都長安城を模倣して大和国に建造されました。

現在、この都市の面積は東西約4.3キロメートル、南北約4.8キロメートルと推定されています。

平城京は、中央北部に宮城や平城宮が配置され、中央の朱雀大路によって左京と右京に分かれ、更に大路や小路によって碁盤目のように整然と区画されていました。

全体では、72の坊に分かれていました。

この地域では、5世紀頃から天皇陵が作られ、7世紀には興福寺も建立されました。

8世紀になると、東大寺や東大寺の大仏、法華寺などが建立され、地域が政治と文化の中心地となりました。

推定される人口は20万人で、この活気ある都市は、後の平安京の設計に影響を与えました。

平安京も計画都市でしたが、道路の幅が平城京とは異なり、重要度によって変わりました。例えば、朱雀大路の道幅はなんと84.8メートルもありました。

お城博士
そして、朱雀大路の南端には羅城門が建てられたんじゃ。
助手
羅城門は、都の正門で、都市全体を囲む壁、つまり羅城を意味します。羅城は、市街全体を囲む高く厚い城壁で、中国の都市でもよく見られる特徴です。

日本の羅城!象徴か、防御か?古代の城壁と都城制の影響について

中国やベトナム、朝鮮では、頻繁に大規模な戦争が行われ、敵から守るために農民を城内に入れ、城門をしっかり閉める必要がありました。

このため、高い城壁が必要で、羅城が発展しました。しかし、日本では他の民族から攻撃される危険がほとんどなく、厚くて高い城壁は不要でした。

それでも、日本は中国の都城制を模倣し、形だけの羅城と羅城門を建設しました。

『大宝律令』という古い文書には、「京城垣」という言葉があります。これは藤原京にも羅城があったことを示している可能性があります。

しかし、「垣」の言葉は、防御用の城壁よりも、都市とその外の地域を区分する境界の役割を意味していると考えられます。

平安京の羅城に関しては、羅城門の両側に東西に数百メートルの城壁が築かれていただけで、その他の部分が全て囲まれていたかどうかは分かりません。

『延喜式』によれば、羅城には六尺(約1.8メートル)の高さの塁壁と一丈(約3メートル)の溝があったとされていますが、その溝が全域を囲んでいたかどうかは不明です。

簡単に言えば、日本の羅城は主に象徴的なもので、中国や他の国々のような防御目的ではなく、主に都市の境界を示すものとして使われていたと考えられます。

まとめ

古代日本の東北地方における城柵の築造と蝦夷の征討は、大和朝廷が国の安定と拡大を図る一環として行われました。8世紀に活発化したこれらの活動は、『日本書紀』に早くも647年に記録されており、大和朝廷が東北地方に注目を始めたことを示しています。

坂上田村麻呂の役割は、蝦夷の征服と東北地方の開発において中心的でした。彼は797年に征夷大将軍に任命され、801年には蝦夷を攻撃するために4万の兵士を率いて陸奥に向かいました。この征討により、蝦夷の地盤であった胆沢を攻略し、胆沢城を建設しました。その後も彼の築城活動は続き、北方の志波城を築城し、新しい徳丹城を建設しました。

日本の都城制の発展も進行し、初めての都城が645年に孝徳天皇によって建設されました。そして、持統天皇が694年に藤原京を完成させ、日本の都城制の発展の礎を築いたとされています。その後、平城京の建設により、日本の都市計画は一層発展しました。

平城京の時代は、日本が急速な発展を遂げ、文化と政治の中心地として繁栄しました。この都市の設計は、後の平安京の設計にも影響を与えました。そして、日本の羅城も発展しましたが、主に象徴的なものとして使われ、他の国々のような防御目的ではなく、主に都市の境界を示すものとして使われていたと考えられます。

これらの活動と発展は、日本の歴史において重要な時期を示しており、大和朝廷の力の拡大と国の安定化をもたらす上で重要な役割を果たしました。

お城博士
最後に、記事のポイントをまとめるぞよ。
項目 詳細・説明
大和朝廷と東北地方 東北の城柵の築城と蝦夷の征討に力を入れる。最初の記録は大化三年(647年)の渟足柵の築城。
六国史 古代日本の律令国家が編纂した6つの正史。飛鳥時代から平安時代前期に行われた国家事業。
坂上田村麻呂と東北地方の城柵 胆沢から徳丹城までの築城を行う。797年に征夷大将軍に任命され、801年に4万の兵士を率いて陸奥に向かう。
城柵の規模 例:多賀城(東西880m、南北700m)、秋田城(東西1150m、南北1100m)。
日本の都城制の発展 645年、孝徳天皇が長柄豊碕に遷都。672年、天武天皇が新都の建設を始め、持統天皇が694年に藤原京を完成。
平城京とその影響 710年に建設。面積は東西約4.3km、南北約4.8km。72の坊に分かれ、20万人の人口。
日本の羅城 主に象徴的なもので、防御目的ではなく、都市の境界を示すものとして使われていたと考えられます。

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