日本の古代城郭!縄文時代から古墳時代の高地性集落と豪族居館

日本の城や集落の起源と進化について、この記事では縄文時代から古墳時代までの変遷を解説します。

縄文時代の横穴住居から、弥生時代の高地性集落、環濠集落の出現、そして古墳時代の豪族居館まで、日本の古代社会の防衛と居住の形態がどのように変化したのかを探求します。

お城博士
重要な遺跡、例えば観音寺山遺跡や吹越原遺跡、大塚遺跡なども紹介し、それぞれの時代の特徴とその変遷を明らかにするぞ。
助手
この記事を通じて、日本の古代の生活と防衛構造の理解を深める手助けとなれば幸いです。

城の起源と進化とは?縄文時代から弥生時代の高地性集落まで

極端に言えば、城は人類の歴史とともに存在していました。

縄文時代には、猛獣から身を守るため、横穴住居の入口に木や石を置くことで、城の初期的な形が見られました。これは部族間の争いや他部族の攻撃からも防ぐ手段となりました。

城の始まりはかつて神籠石や東北の城柵とされていましたが、弥生時代の集落の発掘により、現在では弥生時代の集落が城の原初形態とされています。

その代表例が高地性集落です。これは丘陵や山の上に建てられ、特定の地形を利用して防御機能を高めた集落を指します。

会下山遺跡
会下山遺跡 wiki

これらの集落は、弥生時代中・後期に、平地と数十メートル以上の標高差がある地点に形成されました。

お城博士
主な集落は環濠集落で、外敵からの侵入を防ぐ目的で水田に近い平野部や台地上に形成されていたんじゃよ。
助手
一方で、山地の頂上・斜面・丘陵など、農作物を大量生産するのには不適な地域にも、高地性集落の遺跡が発見されていて、その性質については多くの議論が交わされていたんですよね、博士。

古代の痕跡!観音寺山遺跡と吹越原遺跡における高地性集落の発掘

観音寺山遺跡
観音寺山遺跡

弥生時代の観音寺山遺跡は大阪府に位置し、高地性集落の一部として一七三棟もの建物跡が確認されています。

また、山口県の吹越原遺跡では一〇棟の建物跡が見られます。

観音寺山遺跡は和泉山地から槇尾川沿いの丘陵の尾根上、標高60~65mの位置に存在します。1965年に住宅開発計画の際、調査団が結成され、弥生遺跡の存在が明らかとなりました。

この調査は同志社大学の学生らを中心として実施され、多数の竪穴住居と遺物が発掘されましたが、調査範囲は集落全体の約3分の2にとどまりました。

以前は弥生中期から高地性集落が出現したと考えられていましたが、瀬戸内地方や近畿方面では弥生前期の高地性集落も発見され、さらに古い時期から存在していたことが明らかとなりました。

この高地性集落は、空堀や土塁を持ち、その形態は中世の「掻き上げ城」に似ています。そして、高地から平地への移行として、環濠集落が現れ、これは堀や柵列を持ち、実質的には城の形状をしています。

環濠集落!卑弥呼の時代からの発掘と日本列島の古代集落

佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市の吉野ヶ里遺跡を囲む環濠。
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町・神埼市の吉野ヶ里遺跡を囲む環濠。wiki

環濠集落は二世紀ごろ、卑弥呼の時代に築かれたものがいくつか発見されており、その一例が神奈川県の大塚遺跡です。

この遺跡では、全長約六五〇メートルの環濠がおよそ九〇棟の住居全体を囲む形になっています。このような集落は、水稲農耕とともに大陸からもたらされ、水堀または空堀に囲まれています。

これらの環濠集落の起源は、長江中流域と南モンゴルの興隆窪文化に遡るとされ、日本列島では、弥生時代から中世にかけて様々な地域で発見されています。

長江中流域の彭頭山遺跡では、約8000年前の環濠集落が発見されています。ここでは、直径約200メートルの集落が自然河川に繋がっており、三方を幅約20メートルの濠が囲んでいます。

また、内蒙古自治区赤峰市の興隆窪遺跡では、約8200 – 7400年前の環濠集落が発見されており、この集落では約100棟の竪穴建物が発見されています。

環濠の標準的な幅は上幅が約四メートル、底幅が約二メートルです。これは、他の環濠集落、例えば福岡県の比恵遺跡とも一致しています。

最も大規模な環濠集落の一つとされるのが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡です。

この遺跡では、約三五〇戸の竪穴住居址が発見されており、集落を囲む形で深さ三~四メートル、幅六~八メートルの堀が存在します。

お城博士
この堀は二重構造で、東と西に物見櫓の柱穴も発見されているんじゃよ。
助手
この特徴は『魏志倭人伝』の記述に一致するとされ、邪馬台国の一部ではないかとも推測されています。

古墳時代の秘密とは?豪族居館と環濠集落の変遷

各地での古代遺跡の発掘調査の進展に伴い、城の歴史も更新されています。特に注目されているのが古墳時代の豪族居館です。

豪族居館とは、古墳時代に地域を支配していた有力な一族、豪族が居住していた館のことを指します。

今までに、岩手県から熊本県まで100ヶ所以上の豪族居館が確認されており、これらの居館は堀、土塁、柵を持ち、正方形や長方形の形をしています。

敷地内は柵や溝で区画され、住居、倉庫、祭祀場などに分けられており、面積は小さいもので2000平方メートルから大きいもので7000平方メートルまで異なります。これは環濠集落と比べると小規模です。

豪族居館の立地は主に平地や台地にあり、河川が交通や防御のために巧みに利用されていました。古墳時代に入ると環濠集落は消失し、濠や柵で囲われていない普通の集落が主になりました。

しかし、はじめのうちは豪族居館は環濠集落内に造られ、リーダーの住居や神殿などが堀で囲まれることから始まりました。

これまで、この時期については少なく触れられてきましたが、三世紀末から七世紀までの古墳時代には、環濠集落のような防御的な集落が徐々に消え、一般的な集落風景へと変わりました。

その過程で、各地域を代表する豪族が現れ、巨大な古墳の建設が始まりました。

三ツ寺遺跡!古墳時代の豪族居館の発掘とその意義

三ツ寺I遺跡 概観
三ツ寺I遺跡 概観 wiki

各地での古代遺跡の発掘に伴い、豪族たちも自分たちが居住する屋敷を構築するようになったことが分かっています。

このような豪族居館と考えられる遺跡は、関東地方から九州まで広範囲で見つかっており、その一つが群馬県の三ツ寺遺跡です。

この遺跡は、日本考古学の学史上初めて古墳時代の地域首長(豪族)の居館遺構が発見されたことで知られています。

三ツ寺遺跡は榛名山の南麓、猿府川沖積平野に位置し、その正確な名前は「三ツ寺Ⅰ遺跡」と呼ばれています。

居館の所有者については残念ながら不明ですが、古墳時代の中ごろ、すなわち五世紀頃の居館とされています。

この居館は一辺が約86メートルの方形で、周囲を深さ3~4メートル、幅30~40メートルの水堀が囲んでいたことが確認されています。

お城博士
敷地内は南北に分ける柵列もあり、二つの曲輪から成っており、南側に居館と祭祀施設、北側には竪穴住居が存在していたんじゃ。
助手
この構造は、後の平安~鎌倉期の武士の居館の原型と考えられているんですよ。

まとめ

本記事では、日本の古代の集落と城の進化について、縄文時代から古墳時代までの変遷を詳細に探りました。縄文時代では、横穴住居の入口に木や石を置くことで、城の初期的な形が見られ、これが部族間の争いや他部族の攻撃からの防御手段となりました。

弥生時代には、高地性集落が出現。これらは丘陵や山の上に建てられ、特定の地形を利用して防御機能を高めました。

主な集落は環濠集落で、外敵からの侵入を防ぐ目的で水田に近い平野部や台地上に形成されました。例として、神奈川県の大塚遺跡が挙げられ、全長約650メートルの環濠が約90棟の住居全体を囲む形になっています。

古墳時代に入ると、豪族居館が現れました。これらの居館は堀、土塁、柵を持ち、正方形や長方形の形をしています。

敷地内は柵や溝で区画され、住居、倉庫、祭祀場などに分けられており、面積は小さいもので2000平方メートルから大きいもので7000平方メートルまで異なります。

特に注目されるのが、群馬県の三ツ寺遺跡です。この遺跡では、古墳時代の地域首長(豪族)の居館遺構が発見されており、一辺が約86メートルの方形で、周囲を深さ3〜4メートル、幅30〜40メートルの水堀が囲んでいたことが確認されています。

この居館は南北に分ける柵列もあり、二つの曲輪から成っており、南側に居館と祭祀施設、北側には竪穴住居が存在していました。

このような詳細な調査を通じて、日本の古代の生活と防衛構造の理解を一層深める手助けとなれば幸いです。

お城博士
最後に、記事のポイントをまとめるぞよ。
時代 特徴・変遷
縄文時代
  • 初期的な防衛構造が見られる
  • 横穴住居の入口に木や石を置くことで、部族間の争いや他部族の攻撃から防御
弥生時代
  • 高地性集落の出現 – 丘陵や山の上に建てられ、特定の地形を利用して防御機能を高める
  • 環濠集落が主な形態で、外敵からの侵入を防ぐ
  • 例:神奈川県の大塚遺跡では、全長約650メートルの環濠が約90棟の住居全体を囲む形になっている
古墳時代
  • 豪族居館の出現
  • 堀、土塁、柵を持ち、正方形や長方形の形をしている
  • 敷地内は柵や溝で区画され、住居、倉庫、祭祀場などに分けられる
  • 例:群馬県の三ツ寺遺跡では、古墳時代の地域首長(豪族)の居館遺構が発見されている

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