日本の歴史は、数多くの転換点と英雄を持つ壮大な物語です。
この記事では、南北朝時代の内乱と城の進化に焦点を当て、足利尊氏と後醍醐天皇の対立から籠城戦への転換を探ります。
元弘三年(1333年)に足利尊氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じ、京都の六波羅探題を攻め、北条仲時らを追放したことから、約60年にわたる南北朝の内乱が発生しました。
この内乱時代に、戦の方法は騎馬武者同士の野戦から、城を最大限に利用した籠城戦へと変わりました。
これに伴い、城の構造も高度化していきました。楠木正成のような英雄がこの時代に名を馳せ、日本の城郭の変遷に大いに貢献しました。
Contents
源頼朝と鎌倉幕府の樹立!古墳時代から武士の世の到来
古墳時代に居館を築いた豪族は、やがて武士となり、源平の争いを経て、源頼朝による鎌倉幕府の樹立を迎え、いわゆる「武士の世」の到来をもたらしました。
源頼朝は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の武将、政治家で、鎌倉幕府初代征夷大将軍(鎌倉殿)でした。
彼は清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝の三男として生まれました。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流され、その地で以仁王の令旨を受けました。
頼朝は北条時政、北条義時などの坂東武士らとともに平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧しました。
彼は弟たちを代官として使用し、源義仲や平家を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強めました。頼朝は奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼし、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられました。
このようにして、頼朝は東国に独立した武家政権を開き、これが後に鎌倉幕府と呼ばれました。その後、鎌倉武士たちの居館が各地に出現しました。
これらの多くはほぼ正方形の区画からなる方形居館で、多くは「方一町」、すなわち一辺が約109メートルの大きさでした。
このサイズはおそらく古代の条里制(土地区画制度)の影響を受けたとされています。方形居館は堀と土塁に囲まれており、内部が平坦地になっており、これが曲輪にあたります。それゆえ、堀と土塁と曲輪という中世城郭の三要素が揃っています。
住居兼軍事拠点であるため、城に含めることができます。もちろん、軍事拠点とはいっても常に合戦の舞台となっているわけではなく、平時は灌漑用の水源として堀の水が使われたりすることもありました。
方形居館の秘密とは?構造、防御施設、地名の背後にある歴史
方形居館、つまり武士の住居や政治の中心地、は多くの場合、平坦な地域に建てられましたが、防御の目的で崖や丘陵地にも築かれました。
特に東国では、居館は政治や経済の要所に建設されました。これは、鎌倉街道などの主要な交通路沿いや重要な河川の近くに、迅速に兵力を動員できるようにするためです。
しかし、居館の具体的な内部構造は、現存するものがないため完全にはわかりません。それでも、発掘や古い絵画などから、いくつかの情報を得ることができます。
例えば、居館は堀と土塁で囲まれ、中には一つまたは複数の曲輪(中央部)がありました。大規模な居館では、内部には畑や庭、弓の練習場、馬場などがあったこともわかっています。
この種の居館には、堀や土塁の他に、門や塀、柵などの防御施設がありました。例えば、『後三年合戦絵巻』に描かれている櫓は、敵を防ぐために使用されたと考えられます。
また、居館の主が周囲の家臣を呼び集めるために、土塁の一部を特に高く築いた「人呼びの丘」も一般的でした。
地名からも、かつての城館の位置を推測することができます。
例えば、「鐘打台」や「蟹打台」のような地名は、かつて「人呼びの丘」があったことを示す可能性があります。他にも、一見関係なさそうな地名が、実は城館に関連する可能性があります。
南北朝時代の内乱と城の進化!足利尊氏と後醍醐天皇の対立から籠城戦への転換
元弘三年(1333年)五月七日、足利尊氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じ、京都の六波羅探題を攻めて、北条仲時らを追放しました。
二十二日には新田義貞が鎌倉を攻め、鎌倉幕府は滅亡しました。その後、後醍醐天皇が京都に戻り、建武の新政が始まりました。
しかし、足利尊氏は後醍醐天皇と対立し、光明天皇を擁立しました。逃れた後醍醐天皇も「自分こそ正統の天皇である」と主張したため、北朝と南朝の二つが並立する、約60年にわたる南北朝の内乱が発生しました。
この内乱時代に、戦の方法は騎馬武者同士の野戦から、城を最大限に利用した籠城戦へと変わりました。これに伴い、城の構造も高度化していきました。
南北朝内乱(なんぼくちょうないらん)は、14世紀の30年代から約60年間続いた全国的な内乱です。この時期は、1331年(元弘元年)に始まる元弘の乱から、鎌倉幕府の滅亡、建武新政権の成立・崩壊と楠木正成・名和長年らの戦死を経て、両朝分裂に至る時期を含みます。
この内乱は3期に分かれ、初期は足利尊氏が京都に光明天皇を擁立し、後醍醐天皇が吉野へ潜伏した時点から、楠木正行が敗死し、吉野の行宮が幕府軍の襲撃を受けた48年(貞和4・正平3年)までです。この時期、南朝方が組織的軍事力を擁し、独力で北朝・足利方に対抗できました。
楠木正成と日本の城郭変遷!元弘の乱から南北朝の内乱
元弘三年(1333年)五月七日、足利尊氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じ、京都の六波羅探題を攻撃し、北条仲時らを追放しました。
鎌倉を攻撃された鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇が京都に戻り、建武の新政が始まりました。しかし、足利尊氏は後醍醐天皇と対立し、光明天皇を擁立。これにより、約60年にわたる南北朝の内乱が発生しました。
この内乱時代に、戦の方法は騎馬武者同士の野戦から、城を最大限に利用した籠城戦へと変わりました。これに伴い、城の構造も高度化していきました。
それまで平坦地に築かれた方形居館から、山岳地帯の天険を活かした山城への変化が見られました。この転換の旗手として、楠木正成が名を連ねます。
楠木正成は、元弘の乱で大規模な幕軍を千早城に引きつけ、鎌倉幕府打倒に貢献。しかし、湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害しました。
彼は日本史上最大の軍事的天才との評価を受け、築城・籠城技術を発展させ、革新的な軍事思想家としても知られています。
楠木正成は河内赤坂城を築き、後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵。赤坂城は一度陥落したものの、後醍醐天皇の支援のもと、再び取り戻されました。
まとめ
セクション | 詳細 |
---|---|
時代背景 | 南北朝時代の内乱 (約60年間) |
1333年、足利尊氏が後醍醐天皇の呼びかけに応じ、京都の六波羅探題を攻撃 | |
戦の変化 | 騎馬武者同士の野戦から、城を利用した籠城戦への転換 |
城の進化 | 城の構造の高度化 |
楠木正成の築城・籠城技術の貢献 | |
重要人物 | 足利尊氏、後醍醐天皇、楠木正成 |
その他のポイント | 源頼朝による鎌倉幕府の樹立 |
方形居館の構造、防御施設、地名の背後にある歴史 |