熊本城は、時代を超えてその雄大な姿を保ち続けています。
一度は戦火や天災によってその姿を変えざるを得なかったものの、人々の手によって再びその輝きを取り戻しつつあります。
本記事では、熊本城の豊かな歴史、その中での様々な戦争、そして現代における復興の道のりについて詳しく解説します。
熊本城の歴史、戦争、そして現代までの旅
熊本城(くまもとじょう)、または銀杏城(ぎんなんじょう)は、肥後国飽田郡熊本(現在の熊本県熊本市中央区)に築かれた城で、安土桃山時代から江戸時代の日本の城です。
加藤清正が中世城郭を改築したこの平山城は、加藤氏改易後、幕末まで熊本藩細川家の居城でした。
明治時代には西南戦争の戦場となりましたが、その直前に本丸の大小天守や御殿などが焼失しました。
現在、宇土櫓を始めとする櫓・城門・塀が現存し、13棟が国の重要文化財に指定されています。城跡も「熊本城跡」として国の特別史跡に指定されています。
熊本城の前身は鹿子木氏が築いた隈本城で、慶長6年(1601年)に加藤清正によって着工、慶長12年(1607年)に完成しました。
清正は城の完成の4年後に没し、忠広が継ぎましたが、寛永9年(1632年)に忠広は改易となり、替わって細川忠利が入城。明治まで細川家は11代城主を勤め上げました。
西南戦争の際、西郷隆盛率いる西郷軍が明治政府に対して蜂起し、約4000名の政府軍の将兵が守る熊本城を攻撃しました。
しかし、城に容易に近づくことすらできなかった西郷軍は、城内での謎の出火の前に、大小天守や本丸御殿などを焼失しました。
西郷はこの戦いの中で「清正公と戦をしているようだ」と言ったといわれています。
不落の要塞と桜の名所
熊本城、または銀杏城は、その高石垣と連続枡形、五階櫓といった防御構造から、「史上最強の城」とも評されます。
この城は、台地上に築かれ、その台地を覆うような20メートルの高石垣が築かれています。石垣上には多聞櫓が構えられており、城内に侵入することはほぼ不可能です。
もし侵入できたとしても、高石垣に挟まれた登城道が待ち受け、さらに城内には敵をいち早く発見し、撃退する防御拠点として五基の五階櫓がそびえ立っています。
熊本城は熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地、茶臼山丘陵一帯に築かれました。
中世に築かれた千葉城や隈本城を取り込み、加藤清正は現在の本丸にあたる部分の築城を行いました。細川氏の時代には城地の拡張と増築が盛んに行われ、二の丸、三の丸が加わりました。
明治時代には大半の建物が撤去され、熊本鎮台が置かれた後に更なる建物や石垣の撤去や改変が行われました。西南戦争で天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失しましたが、現在は宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残り、城跡は特別史跡に指定されています。
熊本城の地震被害と復旧の道のり!2016年から2052年へ
平成28年(2016年)4月の熊本地震によって熊本城は甚大な被害を受けました。全体の石垣の3割が被害を受け、完全に倒壊した北十八間・東十八間櫓をはじめ、13の重要文化財がすべて被害を受けました。
熊本市は天守の復旧を優先し、令和3年(2021年)4月には小天守が公開されました。特別見学通路も設置され、空中からの視点で復旧が進む城内を見学することができました。
2016年6月の熊本市議会報告では、熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みが確認されました。
被害を受けた建物は、重要文化財建造物13棟と復元建造物20棟に上りました。
石垣の大きな崩壊の一因として、石垣の上に立っていた大木が指摘されています。
文化庁の試算では、石垣の修復には約354億円を要するとされ、熊本市の大西一史市長は2016年7月に天守の修復を3年で、全体の修復を20年で終えるとの目標を明らかにしました。
しかし、2021年の時点で、天守閣の復旧工事は完了しましたが、櫓群の解体復旧・修復工事はこれから行われる予定です。
2022年11月22日、同市長は復旧が当初の計画より15年遅れ、完全復旧は2052年度となる見直しを発表しました。
熊本城と西南戦争!昔と今の輝きと闘い
熊本城は茶臼山の全域を利用し梯郭式縄張をもち、多くの建造物を備えています。現在の大天守と小天守は昭和35年(1960)の外観復元です。
これらは連結式で、1mの石垣の上に30mの大天守が聳えています。高石垣が特徴で、茶臼山の脆弱な地盤に対応するため、堅固な石垣が必要でした。
築城当時の4つの櫓のうち、現在は11つしか残っていませんが、それぞれが他の城の天守ほどの大きさと風格を備えています。
特に宇土櫓は三層五階の堂々とした姿で、他の櫓とは異なる美しさを持っています。本丸御殿も平成20年(2008)に忠実に復元されました。
西南戦争は1877年に熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県で発生した士族による武力反乱です。
西郷隆盛が盟主を務め、この戦争は日本国内で最後の内戦となっています。西郷は鹿児島県で私学校を創設し、不平士族と若者の教育を行っていました。
しかし、明治政府の士族に対する政策が不満を引き起こし、多くの乱が発生しました。その中で、西郷の立場と意図は不明確で、彼の真意は今でも憶測の域を出ていません。
まとめ
カテゴリ | 詳細情報 |
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創建者 | 加藤清正 |
築城年代 | 慶長6年(1601年)から慶長12年(1607年) |
戦争と戦闘 |
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現存する建物 | 宇土櫓など、13棟が国の重要文化財に指定。 |
地震の影響 |
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復旧の進行状況 |
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他の特徴 |
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