姫路城は、日本の兵庫県に位置する、美しい白漆喰の城で、世界遺産としても認められた重要な歴史的建造物です。
1346年に初めて築かれて以来、その存在は多くの戦、変遷、修復を経て、今日まで堂々と立っています。
その始まりは、赤松貞範によって、そして後の時代に池田輝政による大規模な改修により、その威厳をさらに高めました。
その壮麗な建築は、江戸時代の美学と技術の精妙な組み合わせを表しています。
姫路城は、時の試練を乗り越え、その輝きを保ち続けています。明治時代には、廃城令により破壊の危機に瀕しましたが、その後、昭和と平成の時代に大修理が行われ、その美しさが現代にまで引き継がれました。
白鷺の翼下!姫路城の歴史と輝き
姫路城は兵庫県姫路市に位置する歴史的な日本の城で、江戸時代初期の主要建築物が今も現存しています。
この城は国宝や重要文化財に指定され、内部の主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡にも指定されています。
さらに、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などにも選定されています。その美しい白漆喰総塗籠造の姿から、白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう)とも呼ばれています。
姫路城の始まりは、南北朝時代の1346年、赤松貞紀が姫山に城を築いたことに遡ります。その後、羽柴秀吉が入城し、近世城郭へと変貌しました。
しかし、現存する天守などの多くの建造物は、1601年から1609年にかけて池田輝政によって造営されました。
輝政は、徳川家康の次女、よし姫と結婚し、関ヶ原の戦いでは東軍に与しました。その戦功で、彼は播磨52万石の領主として、姫路城の城主となりました。
姫路城は、家康によって、西国の諸大名に睨みを利かせるとともに、大坂城にいる豊臣家の包囲網を形成する拠点の一つとされました。
そして、輝政による改修の結果、今日見られる巨大城郭へと変貌しました。この城の戦う城としての側面も重要です。
姫路城の歴史、建築、そして世界遺産
姫路城の大天守は五層七階で、入母屋造りの屋根をもつ櫓の上に二重の望楼を乗せた望楼型天守です。
初期の小さい望楼部と違い、優美なバランスを考えた後期望楼型天守です。乾小天守は西北に位置し、三層五階で、3つの小天守の中で最大です。西小天守も三層五階で、乾・西小天守には特別な華頭窓があります。
東小天守は三層四階で、最小で、破風や華頭窓はない。
姫路城は、現在の姫路市街の北側の姫山および鷺山を中心に築かれた平山城です。この城は、江戸時代以前に建設され、現存する12天守の一つです。
ほとんどの城域が特別史跡に、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟が重要文化財に指定されています。
ユネスコの世界遺産にも登録されており、その他にも、「国宝五城」や「三名城」「三大平山城・三大連立式平山城」の一つとしても数えられています。
姫路城の歴史と構造!池田輝政とその時代
姫路城はかつて内堀、中堀、外堀に囲まれた三重の縄張を持っていましたが、中曲輪と外曲輪は多くが近代化によって失われました。
その一方、内曲輪の縄張は明瞭に残っています。内曲輪は姫山と鷺山の二つの丘陵を利用し、本丸(備前丸)、二の丸、三の丸、西の丸などで構成されていました。
城へのアクセスは複雑で、菱の門といの門を通り、その後はの門やぬの門へと分かれ、どちらの道も曲がりくねっています。この複雑な構造は敵を混乱させ、姫路城の防御の秘訣でした。
鷺山に造られた西の丸はシンプルな構造ですが、これは築造年代の違いによるものです。西の丸は大坂夏の陣後の1618年に築かれました。
当時の城主、本多忠政の嫡男忠刻が千姫を正室として迎えるために増築したのが西の丸です。
千姫が暮らした御殿は今はありませんが、化粧櫓と百間廊下は侍女の居室として築かれた施設でした。
池田輝政は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての著名な武将で、多くの城主を務め、姫路城を現在の姿に大規模に修築しました。
1564年に生まれ、幼名を古新といい、元服後は照政と称しました。後に輝政に改名し、父や兄と共に織田信長に仕えました。
輝政は信長の近習となり、1573年には木田城主となりました。荒木村重の謀反時、1579年には父と共に摂津倉橋に在陣しました。
時の試練を超えて輝く文化の象徴
姫路城は平成5年(1993年)に世界遺産に登録され、城郭建築の最高点とされていますが、その歴史は容易なものではありませんでした。
明治維新後の廃城令により他の多くの城と同様に破壊の危機に瀕しましたが、陸軍の中村重遠らの尽力によりその危機を乗り越えました。
さらに、第二次世界大戦中には2度の空襲を受け、焼夷弾が大天守に落ちましたが不発に終わり、城は焼失を免れました。
その後、昭和10年から30年(1935年から1955年)にかけて「昭和の大修理」が行われ、平成21年(2009年)には「平成の大修理」が実施されました。
これらの大修理では、屋根瓦がすべて取り外され、交換や洗浄が行われ、継ぎ目の漆喰も塗り直されました。また、天守内部の空間も見直され、展示品は別の場所へ移され、照明には暖色系のLEDが使用され、江戸時代に近い雰囲気が再現されました。
江戸時代にも、大天守の大規模な補強修理が何度か行われました。特に、腐った柱の根元を取り除き、新しい材料を用いて補強する作業が行われました。
小規模な修理では、軸部の補強や屋根、軒廻りの修理が行われ、その記録が残されています。
明治時代には、1910年から1911年にかけて第一期の大修理が行われました。
この修理では、多くの部分が対象となり、壁面に筋交い柱が組み入れられ、ボルトで締められました。瓦はすべて取り外され、半数が洗浄の後に再利用されました。
しかし、天守の傾きを根本的に修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを止めることが目的となりました。
第二期の修理では、多くの部分が修復の対象となり、石垣も修復されました。
まとめ
項目 | 詳細 |
---|---|
場所 | 兵庫県姫路市 |
初築完成年 | 1346年 |
初築者 | 赤松貞紀 |
主要な改修者 | 池田輝政 |
池田輝政の活躍期間 | 1601年から1609年 |
UNESCO世界遺産登録年 | 1993年 |
城の形式 | 五層七階、平山城 |
主要な構造物 | 大天守、小天守、渡櫓、乾小天守、西小天守、東小天守 |
保存状態 | 国宝、特別史跡、重要文化財 |
第二次世界大戦時の状態 | 2度の空襲を受けるも焼失せず |
「昭和の大修理」期間 | 1935年から1955年 |
「平成の大修理」実施年 | 2009年 |
主な修理内容 | 屋根瓦の交換・洗浄、漆喰の塗り直し、内部の見直し、照明の更新等 |
他の名前 | 白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう) |
歴史的意義 | 西国の諸大名に睨みを利かせる拠点、大坂城にいる豊臣家の包囲網を形成する拠点 |