本記事では、古代日本の神籠石と古代山城に焦点を当て、その歴史と未解明の部分について探ります。
四世紀から六世紀ごろ、九州から瀬戸内地方にかけて、神籠石または神籠石式山城と呼ばれる山城が築かれました。
これらの山城の存在は、主に遺構でのみ確認されており、古文献にはほとんど記載がありません。
Contents
神籠石と古代山城!九州から瀬戸内の歴史的遺跡
古墳時代と重なる四世紀から六世紀ごろ、神籠石または神籠石式山城と呼ばれる山城が九州地方から瀬戸内地方にかけて築かれました。
『日本書紀』や『続日本紀』に記載がないため、遺構でのみその存在が確認されています。
神籠石の名称は、本来高良大社の参道脇にある「馬蹄石」など、神の依り代となる岩石を指すものでしたが、近くの列石と混同され、この名が列石遺構に付けられました。
この名称の使い方は誤りであり、一例として2005年に「唐原神籠石」と呼ばれていたものが「唐原山城跡」という名称で国の史跡に指定されました。
他の「神籠石」という名称で指定されている史跡も今後改名される可能性があることを示しています。
福岡県久留米市の神籠石など、多くは九州地方に位置し、いくつかは中国地方にも分布しています。この神籠石が本当に城であるのかどうかについては、明治時代以来、長い論争の歴史があります。
様々な説が提唱されましたが、戦後の発掘調査により、例えば佐賀県の帯隈山神籠石から、柵列の柱が発見されるなど、朝鮮式山城との類似性が指摘され、現在では古代山城として理解されています。
それ故、神籠石は神籠石式山城とも表現されることがあります。
神籠石と古代山城!未解明の古代日本の防衛構造
この帯隈山の神籠石のほか、久留米市の高良山、福岡県の女山・雷山、佐賀県のおつぼ山など、神籠石は多くの場所に存在しています。
しかし、『日本書紀』などの文献には、これらの神籠石についての記述が一切ありません。発掘調査を行っても、その成立時期や築かれた人物についての情報はまだ判明していません。
現在有力視されている説は、地方の王や豪族が大和朝廷に対抗するためにこれらの神籠石を築いたというものです。
神籠石は後に大和朝廷によって征服され、七世紀に再利用された可能性があります。この推測は、神籠石と朝鮮式山城の分布状況に基づいています。
朝鮮式山城は天智天皇の時代に築かれ、神籠石と共に防御ラインを構築していたとされています。大和朝廷は百済の兵法者に朝鮮式山城を築かせ、既存の神籠石も城として再利用した可能性が指摘されています。
白村江の戦い後の日本!大野城と基肄城の建設とその防衛戦略
朝鮮式山城の名前の由来は、この時期に朝鮮から渡来した人々によって築かれたからであり、白村江の戦い(663年)での大敗後、日本は再び唐や新羅の侵攻を警戒しました。
この緊急の状況下で、大和朝廷は北九州の防衛を強化する決断を下し、百済から亡命してきた兵法者を使用して、朝鮮式山城が急速に建設されました。
福岡県の大野城や基肄城は、この努力の一環として築かれ、それぞれ長い土塁で防護されました。
特に大野城では、一五キロメートルにわたる土塁と強固な石塁が重要な位置に残されており、大和朝廷の危機感がうかがえます。
この動きは、大野城が大宰府の北側の防衛として、土塁や石垣で囲まれ、70棟近くの建物の礎石が城内に残されていることからも確認できます。
【水城】古代日本の防衛と白村江の影響
『日本書紀』に記載されているように、天智天皇三年(664年)に、大和朝廷は筑紫に大堤を築き、水を貯えて「水城」と名付けました。
これは白村江の敗戦後、倭国が唐・新羅軍の侵攻の脅威に対抗して、防衛体制の整備を急いだ結果です。
高さ一四メートルの土塁が今も残り、昭和五十年(1975年)の発掘調査では、築堤の外側に幅約六〇メートル、深さ約九メートルの堀跡が発見されました。
この水城の築城は、北九州だけではなく、対馬の金田城や香川県の屋島城、大阪府から奈良県にかけての高安城など、他地域の防衛施設と並行して行われました。
古代日本の東北地方!城柵の築造と蝦夷の征討
大和朝廷が律令国家としての体裁を整えていく過程で、西南防衛のための築城と同様に、東北地方の城柵の築造と蝦夷の征討に注力しました。
『日本書紀』大化三年(647年)の条では、早くも渟足柵の築城が記録されており、大和朝廷が東北地方での影響力を確立しようとしていたことが示されています。
六国史には、多数の城柵名が列挙され、それぞれが蝦夷征討のための軍事拠点として設立され、その後、東北開拓の中心拠点として機能しました。
具体的には、渟足柵の築城の翌年には磐舟柵が築かれ、次第に北方へ拡大しました。
神亀元年(724年)には多賀城が築かれ、これが太平洋側の主要な拠点となりました。
一方、日本海側では、天平五年(733年)に築かれた秋田城が主要な拠点となりました。
多賀城は現在の宮城県多賀城市に位置し、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国府や鎮守府が置かれ、11世紀中頃まで東北地方の政治・軍事・文化の中心地でした。
蝦夷を支配するために築かれ、平時には陸奥国を治める国府として機能しました。
まとめ
古代日本の神籠石と古代山城に関する調査では、これらの山城の歴史と未解明の部分が注目されています。
九州から瀬戸内地方にかけて築かれたこれらの山城は、主に遺構で確認されており、古文献にはほとんど記載がありません。
その真の機能や由来に関する論争は長らく続いていますが、最近の発掘調査では、柵列の柱など、朝鮮式山城との類似性が指摘され、古代山城としての理解が深まっています。
神籠石や古代山城の築城の背後には、地方の王や豪族が大和朝廷に対抗する目的があったとされ、後に大和朝廷に征服され、再利用された可能性が指摘されています。
白村江の戦いの後、日本は北九州の防衛を強化し、朝鮮式山城の建設を急速に進めました。その結果、大野城や基肄城などが築かれ、強固な防衛ラインが形成されました。
また、古代日本の東北地方では、大和朝廷が城柵の築造と蝦夷の征討に注力しました。多賀城や秋田城など、多数の城柵が築かれ、蝦夷征討のための軍事拠点として、また東北開拓の中心拠点として機能しました。
この調査を通じて、神籠石や古代山城の真の機能や意義、その築城の背景など、古代日本の防衛と領土拡大の戦略についての新しい洞察が得られることが期待されます。
セクション | 説明・詳細 |
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神籠石と古代山城の概観 |
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神籠石と古代山城:九州から瀬戸内の歴史的遺跡 |
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神籠石と古代山城:未解明の古代日本の防衛構造 |
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白村江の戦い後の日本 |
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水城: 古代日本の防衛と白村江の影響 |
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古代日本の東北地方:城柵の築造と蝦夷の征討 |
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