戦国時代の城と館!日本中世の防衛構造とその概念の再評価とは?

戦国時代:川中島の戦い

戦国時代、この一言で想像されるのは、群雄割拠の時代、無数の合戦、英雄的な武将たち、そして勢力を拡大するために築かれた多くの城です。

しかし、この時代の幕開けと、城の役割の変遷を正確に理解するには、さまざまな視点と解釈を深掘りする必要があります。

本文では、戦国時代の幕開けとされる一つのエピソード、尼子経久と月山富田城の戦いを詳細に探求します。

その後、北条早雲の登場と彼が築いた城、さらには朝倉氏と若狭武田氏の居館と山城についても研究します。

お城博士
そして、城と館の定義や区別についての議論を展開し、これらの歴史的な要塞が戦国時代の軍事的・政治的な風景にどのように影響を与えたかを検討するぞよ。
助手
戦国時代の混沌とした世界で、これらの城と館はどのように機能し、発展していったのでしょうか。それでは、戦国時代の風雲児たちとともに、城の歴史を旅してみましょう。

戦国時代の幕開けと!尼子経久と月山富田城の戦い

城の歴史を探求する旅で、戦国時代に突入します。この時代、城は最も頻繁に建設され、有効に利用されました。

戦国時代 (日本)、第四次川中島の戦い(1561年)
戦国時代 (日本)、第四次川中島の戦い(1561年)

しかし、戦国時代がいつから始まったのかについては意見が分かれています。

一つの説は、応仁元年(1467年)から始まった応仁・文明の乱を戦国時代の幕開けとするものですが、下剋上の観点からすると、もう少し後ではないかと私は考えています。

例として、文明十八年(1486年)の出雲守護代尼子経久による下剋上が注目されます。

尼子経久肖像(洞光寺蔵)
尼子経久肖像(洞光寺蔵)

この事件で、尼子経久は守護京極政経によって罷免された後、月山富田城に京極政高を攻め、城と実権を掌握しました。

尼子経久は出雲国の守護代で、後に出雲守護となりました。

彼は1458年に尼子清定の嫡男として出雲国に生まれました。1474年、主君・京極政経の屋敷へ人質として送られ、5年後に出雲国に戻り、家督を継ぎました。

経久は次第に権力基盤を築いていきましたが、幕府、守護、国人からの反発を受け、1484年に居城を包囲され、出雲から追放される事件が起こりました。

それでも出雲に在国したまま、一定の権力を保持し続けました。

文明十八年正月元日、経久は万歳の集団・鉢屋を味方につけ、城を奪い戻しました。この話は、『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』などに記されています。

北条早雲と戦時・平時の城の使い分け

両書とも後世の編纂物であり、その年次も含め、実証が難しいのが現状です。

それでは、ある程度実証できる出来事として、明応二年(1493年)の北条早雲の伊豆討ち入りを戦国時代開幕を告げる象徴的な出来事と考えられます。

北条早雲、正名伊勢新九郎盛時は、出家して早雲庵宗瑞と名乗りました。

北条早雲(ほうじょう そううん)の肖像(複製)。 (日本の戦国時代初期の大名)
北条早雲(ほうじょう そううん)の肖像(複製)。 (日本の戦国時代初期の大名)

北条の姓になるのは子の氏綱のときからですが、便宜的にここでは北条早雲と呼ばせていただきます。

北条早雲、実際は生前、自らが北条と名乗ることはなかったですが、後世ではその名で広く知られています。

彼は今川氏親の食客から出発し、堀越公方足利茶々丸を逐い、明らかな下剋上の動きを見せました。これが戦国時代の幕開けとされ、約100年間戦国時代が続きます。

しかし、この時代も常に戦闘が行われていたわけではなく、平穏な時期も存在していました。

お城博士
武将たちは毎日を山城で過ごすことはなく、平地の居館で生活し、戦いが迫ると山城に籠ったんじゃ。この使い分けが一般的で、山城は戦時の詰の城と表現されることがあるぞ。
助手
この点は、武田氏、今川氏、畠山氏を例に取り上げることができ、越前朝倉氏と若狭武田氏の例も存在します。

日本の古代城郭!朝倉氏と若狭武田氏の居館と山城

朝倉氏の居館は平地の一乗谷に築かれており、背後の一乗城山には詰の城としての山城が築かれていた。同様に、若狭武田氏も、平時の居館である武田氏館の背後の後瀬山を詰の城としていた。

一乗城山、夏
一乗城山、夏 wiki

若狭武田氏は、武田信繁の嫡男、武田信栄が1440年に一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命され、始まりました。安芸から若狭に本拠地を移し、大飯郡高浜に館が築かれ、信栄の墓所もここに現存する。

平時の居館と詰の城が一緒に攻められる危険を防ぐため、あるいは城下町の需要から、時にはこれらは離れて築かれることもあった。例えば、甲斐武田氏の躑躅ヶ崎館と要害山城は約二・五キロメートル離れていた。

この傾向は戦国大名の居城だけでなく、国人領主の城にも見られました。例として、葛山氏の葛山城と葛山館が挙げられます。

これらの平時の居館は平地にあり、近くには詰の城も残っています。周囲の土塁や空堀、削平地など、戦いのための構造が確認でき、これらの城と居館の違いはしっかりしています。

館と城の境界とは?村田修三氏による中世日本の城郭概念の再構成

村田修三氏は、「城郭概念再構成の試み」で、「どこからが居館で、さらにどの段階から城か、という境界線は明瞭には引けない」と指摘しています。

これは、館も広義の城に含んだ形で理解されているからです。最近では、館と城を区別せず、「館城」という概念が提起されていますが、狭い意味で見ると、館と城は同じものではありません。

はっきりした線引きは難しいものの、大まかな違いは指摘できます。

江戸時代の軍学者の定義では、狭間(壁面などにある防御用の穴や窓)を備えたものが城で、備えていないものが館とされています。

ただし、これだけで戦国期の城と館の違いを論じるわけにはいかないですが、狭間という城内から城外へ攻撃をしかける設備の有無を見るというのは良い着眼点です。

例えば、城の出入口である虎口にしかけが全くなく、ただ土塁と堀があるだけで自由に出入りできるような作りのものは館といえます。

お城博士
しかし、虎口に横矢掛りや馬出などの攻撃的設備が作られていれば、これは明らかに城の範疇に入るぞよ。
助手
つまり、軍事的要素が強いか弱いかで、館と城をある程度は区別化できると村田氏は考えています。

まとめ

セクション 重要なポイントと概要
戦国時代の幕開け 尼子経久と月山富田城の戦いを例として戦国時代の開始を探討
尼子経久と月山富田城の戦い 尼子経久が月山富田城を取り戻したエピソード。
北条早雲と戦時・平時の城の使い分け
  • 北条早雲の伊豆討ち入りが戦国時代の開幕の象徴的な出来事とされる。
  • 武将たちは通常平地の居館で生活し、戦時に山城に籠もる。
朝倉氏と若狭武田氏の居館と山城 朝倉氏と若狭武田氏は平時は居館で生活し、戦時は山城に移動する。
館と城の境界 村田修三氏による館と城の区別についての議論。狭間を備えたものが城、備えていないものが館とされるが、明確な線引きは難しい。

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